二浪之愚記

浪人の末に全落ち。高卒労働者の随想。

青春コンプレックスの呪縛について考える

青春コンプレックスなる言葉があって、それが大変興味深いのでここに取り上げようと思う。というのも、私自身がそのコンプレックスの当事者だからある。

青春コンプレックスとは何か。端的に言えば、学生時代に「青春っぽい」体験が出来なかった人間の抱く劣等感のことである。

10代の頃に純情な恋愛が出来なかったこと、仲間と同じ目標に向かって努力したりバカ騒ぎしたり出来なかったこと。そういった青春に対するステレオタイプな憧れが、ずっと消えずに残存している状態を言う。青春に対する幻想と自身の学生時代を対比して、筆舌に尽くしがたい敗北と虚無を覚える。いい年した大人がいつまで子供じみたことを嘆いているのかという感じだが、当事者にとって学生時代の記憶は決して離れない呪縛なのだ。

私の学生時代も例に漏れず、まさに後悔と嫉妬の連続であった。これまで何度も人生をやり直したいと思ったし、過去の自分を責めては陰鬱になったりもした。

しかしここで、考えてみたいことがある。

仮にこの後悔の記憶を残したまま過去に戻れたとして、はたして自分の人生は変わるだろうか。この問いはすなわち、過去の自分と同じ状況に立ったとき、ちゃんとリスクを取る選択が出来るのかということとほぼ同義である。

そう問われてみると、実は私はあんまり自信がない。私の人生における後悔なんてのは、単なる後出しの理屈に過ぎず、行動に伴うリスクについての視点が無意識的に抜け落ちているか、あるいは軽視されているような気がするのだ。

努力することを面倒がって、周りの人と交わるのを怖がって、そうやってリスクの少ない方を選んだのは紛れもなく自分であった。今、学生に戻ったとして、同じことを繰り返さない自信がない。理想の青春を謳歌するには相応の努力や才能を要するわけで、それらを持ち合わせていない人間の言う青春コンプレックスとはすなわち、予定調和な宿命への嘆きでしかない。

私はそのような嘆きを一切否定するつもりはないし、むしろそのような嘆きしか口にしないような人間であるが、この嘆きが全く無意味な戯言であるという自覚だけは常に持っておきたい。

思うに、この話の根本的問題は自分の過去の行動の一つ一つではなく、普遍的な自分のキャパシティが理想より劣っているという、もっと抽象的なところにある。ここで言うキャパシティとは能力や外見であったり、リスクを負う度量のことだ。

そこを解決しない限り、後悔とコンプレックスの歴史を更新する人生は続いてゆく。実際いまの私はそうである。

そういう風に理屈では分かっているのだが、理屈通りに動けないのが私なのであって、結局苦悩が絶えない。誰かこの呪縛から私を解放して欲しい。