二浪之愚記

大学に行きたいんですが

私が二浪する理由

浪人生活を続けていると、途中で一つの疑問に直面する。それはすなわち、自分が多浪してまで大学に行くことに、はたして意義があるのだろうかということである。このような疑問を抱くのは、受験勉強から逃避したいという欲望のあらわれに過ぎないのかもしれないが、これに対する答えを明確にしておかなければ、私は受験勉強に真摯に向き合えないのである。

大学に行く理由というのは、非常に抽象的で複合的な問題である。大学に進学するのか、あるいはどの大学に行くのか、ということは人生における重大な決断であり、これまでの人生で育まれた価値観の問題でもある。
私は小学生の頃から、有名な大学に行くことは絶対的に偉いことであるという感覚を持っていた。大学でする勉強など何でもよくて、ただ有名な大学に入りさえすれば他人や社会から無条件で認められるのではないかとすら思った。
そのような価値観が変わったのは高校二年の時であった。これについてはまた別の記事で書くが、とあるきっかけで民俗学に興味を持ち、次第に大学で専攻したいとまで思うようになった。

「私は修学と研究のために大学を目指しているのだ!」と言うと、なんだか高尚な感じがして聞こえは良いのだが、私はこのように主張することにためらいがある。
なぜなら、本当に私が心の底から民俗学への情熱を持ち、何が何でもその道に進みたいと考えていたのであれば、現役時代・一浪時代にもっと真面目に受験勉強に取り組んでいたはずだからである。私は受験勉強自体には全くやりがいを感じないのだが、それを理由に勉強から逃げているということは、民俗学に対しては所詮その程度の情熱しかないということであろう。

ろくに勉強も出来ない分際で、一般人からすれば異常とも思えるほど特定の大学に固執している本当の理由は何だ。

答えは簡単。私は自分の無力を認める瞬間が怖いのである。大学受験での挫折で無能が露呈してしまうことを極端に恐れているのだ。だから多浪して最終結果を先延ばしにしている。「まだ負けてないんだ。これから頑張るんだ」と言って、なんとか自尊心を保っている状態である。

私は岐路に立っている。自らの無能を認めるのか、それとも努力によって無能を脱却するのか。「努力はしたくないけど、自分の無能は認めない」などと子供じみたことを言うのはもう終わりにしたい。私にとっての大学受験は「自分自身を心の底から肯定するための戦い」なのである。たとえ有名大学に進学しようと、ただそれだけでは他人から認められたりはしない。それでも、自分に自信を持つきっかけにはなるはずである。