二浪之愚記

浪人の末に全落ち。高卒労働者の随想。

高卒が学歴不要論について語ってみた

現代社会は実力主義!学歴なんて必要ない!

そういった論を展開するインフルエンサーが量産されて久しい世の中である。

結論を先に申し上げると、それは理論上、紛れもなく正しい。生命維持に必要な最低限の生活費を稼ぐだけなら、fラン卒だろうが中卒だろうが何ら問題はない。健康な肉体と精神さえあれば手取り十万程度は簡単に稼げるし、何かしらの事情で仕事ができず、扶養者が見つからない場合には生活保護が受けられる。

餓死と凍死をギリギリ回避できる程度だけ稼ぎ、あとは資産形成も高等教育も娯楽も諦め、孤独と虚無をひたすら耐え抜く人生。これを必要最低ラインと定義し、かつそのライフスタイルが本人にとって実践可能なのであるなら、学歴など全く不要である。

さらに言えば、こんな極論を語らずとも立派にスキルを身につけ資本主義社会を渡り歩く低学歴の人間も一定数存在している。

これらのことを考慮すれば、手放しに学歴が必要であると断ずる根拠は極めて希薄と言わざるを得ないだろう。

しかし、皆にとって学歴が不要であるかというと、実際の話はそんなに単純なものではない。現代の日本社会に生きる多くの人間にとって、上記のような机上の理論が人生の実態に則しているとは限らない。多くの人は娯楽や教養を欲しているし、高い生活水準を得て家族を持つことに生き甲斐を覚える人も少なくない。そして、それらを実現する為に学歴を要する人が数多く存在している。

ではなぜ、学歴不要論を他人に対して声高々に叫ぶ人間がこれほど涌いて出るのか。私が思うに、こうなる人は4つに分類が可能で、具体的に示すと以下の通りである。

①自身の成功事例が万人に通用すると思い込んでいる低学歴の勝ち組

②低学歴の弱者に都合の良いことを吹聴して利益を得ようと企図するエリート

③高学歴の一般的な生活水準を贅沢だと思っている、無自覚の禁欲主義者

④自分はいつか成功すると信じ込んでいる低学歴弱者

言うまでもないが、我々のような低学歴弱者が上に挙げた人々の学歴不要論を真に受けると、取り返しのつかない後悔を生む危険性がある。

先程述べたように、学歴不要論はある意味で正しい。だからこそ、本当に自分にとって学歴が必要が不必要かを個別的に考えて決定することが重要なのである。

もちろんそういった熟慮の結果、自分の人生に学歴は不要であるという結論に至るケースも十分あり得る。しかしそれは個人レベルでの結論であるから、過度に一般化すると他人を傷つけるリスクを孕むということを念頭に入れておきたい所である。

 

話は変わるが、学歴不要論者と対極をなす学歴至上主義者というのも一定数存在している。こちらに関しても、個人レベルで正しい場合はあるが、一般化するのは危険というのが妥当な結論だろう。

学歴至上主義者は学歴不要論者のパターン①を反転したような傾向を持つ場合が多い。自分は努力によって学歴を獲得しており、それは万人にとって可能であるから、学歴のない人間は努力不足のクズであるという理論を展開しがちなのである。

生まれながらのエリートであるが故に、環境に恵まれない人間や学歴が無くても幸せになれる人間への想像力が欠如しているのかもしれない。これはこれで困ったものである。

 

これまでの話をまとめると、学歴不要論も学歴至上主義も他人に押し付けるには一般性の欠けるポジショントークになりがちということである。学歴は個人の自己実現の過程において必要だったり不必要だったりする訳だから、他人にゴチャゴチャと口出しするものではない。

仕事終わりの一杯でギリギリ労働を耐える元引きこもり

所属している警備会社から仕事の連絡が届いた。実に2ヵ月振りのことである。長いこと自宅に引きこもっていた私には仕事を開始するのが大変苦痛に感じられ、少しばかり返事に悩む。

しかし貯金が皆無の私にこの仕事を断る権利など無い。連絡を頂けるだけ有難いと強制的に思考を改め、苦渋の表情で出勤を伝える。堕落を極めた私にとっては、たった1日の労働ですら大変なプレッシャーなのである。働く前から気が重い。

 

そして仕事前日の夜。私は速やかに部屋の明かりを消して布団に潜り込む。復帰初日に寝坊するなど言語道断である。しっかりと寝て万全の体制で仕事に向かおうと計画していた。

しかし、その計画は呆気なく破綻する。むしろその計画が裏目となって出たのである。絶対に寝坊してはならないという強迫観念が、かえって私の睡眠を妨害するのだ。はやく寝ようと思うだけ目が冴えて焦りが加速する。深夜に入ると動悸が止まらなくなって、SNSでその不安を吐き散らす。そうして布団の中で悶々としている間に日は昇り、結局私は一睡も出来ずに当日を迎える。

これが労働の嫌な所だ。労働時間外でさえプレッシャーと不安に支配されてしまう。『近々仕事がある』というだけで精神が擦り減る。仕事に慣れないうちは労働前のプレッシャーが労働自体よりも精神に重くのしかかって私を困らせる。

 

仕方なく寝不足のまま仕事へ向かう。働く前から身体に嫌な疲労感を覚える。

今回の現場は田舎の小学校で、そこがワクチンの接種会場になるらしく、我々はその運営の手伝いをするのである。

業務自体は簡単な案内と車両の誘導に過ぎないが、夏の暑さがとにかく厳しい。焼くような日差しが、ただでさえ貧弱な引きこもりの体力を容赦なく削ってゆく。

逃げ出したい想いを必死で抑えながら、私は朝から夕方までの10時間を耐えていた。世の中の人間はこれを毎日のように繰り返していると思うと、尊敬を通り越して呆れ返る。仕事に付いて行けない自分が正常で、付いて行ける周りの人間が狂っているというような、そんな錯覚に陥る。

そうして足腰と精神に痛みを抱えながら、やっとの思いで仕事を終える。解散が宣言されると、真っ先にコンビニエンスストアへ駆け込んで、缶ビールを一つ購入する。仕事終わりの一杯だけが、私をかろうじて労働に繋ぎ止めてくれる鎖なのだ。

昔はコンビニを出るやいなやグビグビと飲んで駅まで歩いて行ったものだが、この時世にマスクを外して飲酒しながら人通りを進むのはあまり褒められたことではない。仕方がないので民家に挟まれた細い脇道に逸れて、休息するのに良さげな場所を探して歩き続ける。

道なりにしばらく進むと、広い田地に出た。水田が夕景の空を反射して朱色に光っていた。

見事に上下対称となったその美しい景色を眺めながら、私は救われたような気になって、道の端に腰をかけて手持の酒を飲んだ。水分の不足した身体に流れ込むアルコールは異様な速さで私を酔わせて、刹那的な快楽を以て今日の苦痛を少しばかり肯定的な経験へと書き換える。家に引きこもって酒を痛飲するより遥かに良い味がした。この至福の時こそが労働の実質的対価なんだ。そんな意味不明な解釈をして、自分を奮い立たせる。

我ながらよく頑張ったと思う。アルコールと夕日のもたらす感傷に酔いながら、私はまた働く覚悟を固めるのであった。

 

 

 

 

青春コンプレックスの呪縛について考える

青春コンプレックスなる言葉があって、それが大変興味深いのでここに取り上げようと思う。というのも、私自身がそのコンプレックスの当事者だからある。

青春コンプレックスとは何か。端的に言えば、学生時代に「青春っぽい」体験が出来なかった人間の抱く劣等感のことである。

10代の頃に純情な恋愛が出来なかったこと、仲間と同じ目標に向かって努力したりバカ騒ぎしたり出来なかったこと。そういった青春に対するステレオタイプな憧れが、ずっと消えずに残存している状態を言う。青春に対する幻想と自身の学生時代を対比して、筆舌に尽くしがたい敗北と虚無を覚える。いい年した大人がいつまで子供じみたことを嘆いているのかという感じだが、当事者にとって学生時代の記憶は決して離れない呪縛なのだ。

私の学生時代も例に漏れず、まさに後悔と嫉妬の連続であった。これまで何度も人生をやり直したいと思ったし、過去の自分を責めては陰鬱になったりもした。

しかしここで、考えてみたいことがある。

仮にこの後悔の記憶を残したまま過去に戻れたとして、はたして自分の人生は変わるだろうか。この問いはすなわち、過去の自分と同じ状況に立ったとき、ちゃんとリスクを取る選択が出来るのかということとほぼ同義である。

そう問われてみると、実は私はあんまり自信がない。私の人生における後悔なんてのは、単なる後出しの理屈に過ぎず、行動に伴うリスクについての視点が無意識的に抜け落ちているか、あるいは軽視されているような気がするのだ。

努力することを面倒がって、周りの人と交わるのを怖がって、そうやってリスクの少ない方を選んだのは紛れもなく自分であった。今、学生に戻ったとして、同じことを繰り返さない自信がない。理想の青春を謳歌するには相応の努力や才能を要するわけで、それらを持ち合わせていない人間の言う青春コンプレックスとはすなわち、予定調和な宿命への嘆きでしかない。

私はそのような嘆きを一切否定するつもりはないし、むしろそのような嘆きしか口にしないような人間であるが、この嘆きが全く無意味な戯言であるという自覚だけは常に持っておきたい。

思うに、この話の根本的問題は自分の過去の行動の一つ一つではなく、普遍的な自分のキャパシティが理想より劣っているという、もっと抽象的なところにある。ここで言うキャパシティとは能力や外見であったり、リスクを負う度量のことだ。

そこを解決しない限り、後悔とコンプレックスの歴史を更新する人生は続いてゆく。実際いまの私はそうである。

そういう風に理屈では分かっているのだが、理屈通りに動けないのが私なのであって、結局苦悩が絶えない。誰かこの呪縛から私を解放して欲しい。

 

 

 

ツイッターを見て自分がどれだけ甘えているかを知る高卒フリーター

最近のタイムラインでは就活や院試、公務員試験の話題が盛んである。私がフォローしているのは浪人時代から繋がりのある同年生まれの人たちで、その多くが一浪で大学進学を決め、現在は大学4回生である。彼らにとって今はまさにキャリアの第一歩を定めようという時期なのだ。

かたや私は、実家暮らしで呑気にアルバイトなんかをして、稼いだ金を酒に溶かしながらその経緯を眺める高卒のフリーターである。大学全落ちから流れるように社会のレールを踏み外し、ニート、アルバイト、派遣社員をグルグル循環して、結局この5年全く成長がない。そしてそんな現状を変えようという意思も抱かないくらいに、この生活に慣れきっている。

かつて同じ目標を持って共に邁進していたはずの人たちが、今となっては価値観も住む世界も違う遠い存在に感じられる。これは紛れもなく、私が悪い方向へ変わってしまった証であろう。

生まれつき人間社会への適性がなく、そのうえ社会に適合する努力を怠ってきた人間の末路はこうなる。アルバイトや派遣労働でさえ、長く続いた例がない。どうせ正社員など目指したところで採用はされず、仮に採用されてもすぐに精神を病んで退職するに違いがない。そもそも私には決められた時間に寝て起きるということすら困難なのだ。

そう考えると、やはりまともなキャリアを積み重ねていこうという気にはならない。今の私はただ楽な日雇い労働を見つけ出すことにしか関心がない。そうして仕事を見つけても、気に入らないことがあればまた辞める。その繰り返しである。

しかしこうなったのも、私の人生における選択の結果だ。自分が望んでここまで来たのだから、現状に文句を言うことは許されない。

親にはこんな出来損ないの人生を歩み、ひたすら迷惑をかけるだけの人間になってしまったことを心の底から詫びたい。私はまともな社会人にはなれないし、結婚することも出来ない。甘えていると言われればそれまでだが、私の意志の力では社会に出るというのは無理なのだ。許して欲しい。

大学を卒業して社会人になる友人やツイッターのFFには心からの尊敬を以って健闘を祈りたい。私には出来ないことだからこそ、本当に凄いと思うのである。

 

そんなわけで久々のブログの更新であった。長文失礼。

 

 

 

 

 

【多浪的思考回路】不勉強な浪人依存者の生き方

 これまでの浪人期間を振り返ってみても、ろくに勉強をしていた記憶がない。浪人ともニートとも社会人とも明言できぬ半端な存在として、フラフラとこの世を彷徨い続けてきた。
そして気が付けば21歳。有り体に言えば四浪の歳である。
やはりどう考えても、私に大学受験というレースは向いていないのだ。そんなことは、浪人生活を始めるずっと前から気付いていた。才能も無く、努力する気も無いのであれば、さっさと受験勉強から手を引くべきなのは自明であった。
ところがそうは問屋が卸さない。過去の記事で散々語ってきた通り、学習は苦痛だが大学には行きたいという支離滅裂な思考が、私の人生をずっと蝕み続けてきたのある。もう一年浪人すれば大学に行けるのではないかという楽観的な幻想が、自尊心崩壊を阻止する精神的支柱として機能してきたことを、私は否定出来ない。このような有様では浪人依存と言われても文句は言えまい。
しかしこればかりはどうしようも無いことであり、誰にも理解されないことでもある。私にだけ掛けられた呪いのようなものとして受け入れてゆくしかない。なんとも珍妙な呪いである。

とはいえ四浪まで来ると、一般的な社会のレールに乗って生きてゆく王道ルートは完全に閉ざされているように思われ、ある意味で気が楽ではある。もはや四浪するのも十浪するのも似たようなもののように感じてくる。
このまま「受かるまで受験していればそのうち受かるだろう」という舐め腐ったメンタリティで生きてゆくのであれば、浪人生活を持続可能なライフスタイルとして確立することは必須事項である。
私がこなせる学習量には絶対的な限界があるので、残りの時間的・精神的リソースは出来るだけ経済活動に捧げてゆきたい。学習出来ないことに対する自己嫌悪で病んでいたこれまでの時間は本当に無駄であった。自分に長時間の学習は出来ないものだと開き直って、他に生産的な活動をしていた方が何倍もよい。いっそのこと金を稼ぐことをメインにして、その合間に細々と受験勉強を続けてゆく方が、よっぽど健全な生き方なのである。

一般的に、現代の日本では将来のキャリアを見越して大学受験を経験するという風潮があるが、もはや私はそれに逆行する者である。大学受験の成功の為に、金を稼ぐ。大学生になった後の余生は蛇足みたいなものだから、適当に考えておけばよい。

とりあえず直近の目標は派遣労働の量を減らすことだ。収入源を可能な限り分散してゆく。その中で自分が得意そうなことを見極めて、徐々にそこに比重を増やしてゆく。このブログもまたその稼ぎ口の一つである。

そしてもう一つの目標は一人暮らしの実現である。これに関しては2、3ヶ月以内に達成するつもりだ。どうして私が一人暮らしにこだわるかというと、浪人生活に対して誰にも文句を言わせないためには、生活レベルでの自立が必要だからである。食事も洗濯も親に頼っている分際で、実家に金を納めているから文句はないだろとは言えない。

客観的に見れば労働の傍に大学受験なんて無謀の極みなのだろうが、どれだけ無様に失敗を重ねようが、自分で責任が取れるなら問題なかろう。私にはこの生き方しかないのだから、このように生きてゆく。それだけの話である。

 

 

 

 

 

 

 

 

人生の全てがどうでもよくなりつつある高卒底辺派遣労働者の心境

派遣で工場勤めを始めてからというもの、やけに「死」という概念が脳裏をよぎる。

幸福になる為に努力することを放棄し、自分以外に守るべき存在を持たない大人は、何を目的に生きればよいのか。自分一人がギリギリ死なない程度の給料を稼ぎながら、ただ時が過ぎるのを待てばよいのか。その延長線上にある死と、理論上すぐに選択できる自死と、一体何が違うのか。

そんなことを考えながら労働に従事している。私の人生は死に伴う苦痛や恐怖をひたすら先延ばしにしているに過ぎないと考えると、ある種の虚しさが込み上げてくる。

とはいえ、私は生理的本能に打ち勝って己の意思で死を決行できるほど覚悟のある人間ではない。結局のところ、この世界で無様に苦痛から逃げ回る方法を模索するに限る。

これまでの私は、自分に内在する社会不適合者特有の思考原理を、必死に押し殺して生きてきた。本当は他人に興味など無く、周りにいる人間が煩わしくて仕方がなかったのだが、そのような態度は決して見せないようにしてきた。それがこの地獄のような世界を生き抜くための、私なりの生存戦略だったのである。周囲が不快にならないように偽りの自分を演じ、時には自己犠牲によって平穏な人間関係や職場の雰囲気を守り続けてきたのである。
ところが今となってはそのような努力をする気力も起きない。周りを不快にさせようと、どれだけ嫌われようと、もうお構いなしである。現在の職場では皆がサービス残業をしている中、無許可で帰宅したりして、さっそく嫌われ者となっている。契約書に書かれた労働時間を超過して無償で働かされているのだから、悪いのは会社側であるし、私がサービス残業に従事する義務など一つもないのだ。私が抜け駆けしたことで現場が混乱し、残された従業員達が多大な負担を受けようと、もはや私は何とも思わないし、それを咎められたとしても、謝罪も反省もするつもりはない。仕事に支障をきたすようなイジメが起これば出社を拒否して派遣会社に迷惑をかけてやればいいと思っている。

失うものが無い上に将来の人生にも期待出来ないとなると、人はこのように「無敵の人」と化していくのだろうか。いずれ法を犯し刑事罰を受けることすらノーダメージだと思える日が来てしまうのだろうか。私はそれがものすごく怖いのである。

そうならない為には現状を軌道修正し、人生にある程度の期待を抱けるようにするしかない。しかし、この派遣労働を続けている間にそのような事が実現するなど有り得ない話である。周りの人間は皆うつろな目をしていて、負のオーラに満ち溢れている。ずっとこんなことを続けていたら確実に潰される。

私はここから逃げ出せばよいのだろうか。逃げ出したとして、どこへ行けばよいのか。何かスキルのあるわけでもない低所得者は、当分労働自体から逃げ出すことは出来ないのである。ここから逃げ出した先の職場が、ここより酷い可能性だって十分考えられる。

 

これまでずっと人生の要所で選択を誤り続け、その都度反省することなく問題を先送りにしてきたシワ寄せが、今ここに来てとんでもない後悔を生んでいる。どうしてここまで堕ちるまで学習しなかったのかと、自分に怒りが湧いてくる。

今更こんなことを言ってもどうにもならないことは分かっているが、本当に変わりたい。早く反省して一から努力を積み上げる気概を持ちたい。踏ん張って人生を諦めないで、真っ当な大人に成長したい。頭ではそう思うのに体が付いていかない。行動出来ない。人間性が変わらない。

 

今後、これ以上厳しい状況はいくらでもあるのだろう。しかし、自分のキャパシティはもう限界である。ここから這い上がる苦労も、このまま堕ち続ける苦労も、耐えられそうにない。精神か身体かが壊れるまで時間の問題かもしれない……。

 

 

21歳ニート、派遣社員として工場勤務に就くも仕事内容が嫌すぎて契約更新拒否を決意

前回の記事

www.yanagita920.work

 

 

かねてより登録していた派遣会社から連絡があった。私が志願していた仕事の採用結果を伝えに来たのである。
面接の翌日には採用結果を報告すると聞いていたのだが、これは面接が終わってから音沙汰無しのまま五日ほど経過した頃の話である。


「残念ですが派遣先の方が工場未経者は採用できないとおっしゃっていますので、今回は不採用という形になります」
と担当者が宣う。それ派遣法違反ですよね、なんてことを言う気にもなれず、私は「承知しました」とだけ答える。
もはやこの会社に対する信頼は地の底へ落ちているので、採用が決まらなければこことは縁を切ろうと決めていた。どうせこれから紹介される仕事も怪しい案件に違いが無いのだ。

「同様の収入が見込める仕事がいくつかあるのですが、明日面接に行けますか」
「いや明日は厳しいですね。やはり自分で仕事を探そうと思います。短い間ですがお世話になりました」
という風なやり取りをして私は無理矢理電話を切った。

ところが数時間後また件の派遣会社から電話が掛かってくる。しつこいなと思いつつ耳を傾ける。
「先ほど不採用とお知らせしたお仕事ですが、急遽明後日から現場に来て欲しいということらしいです。大丈夫でしょうか」
正直な話、何言ってんだコイツと思った。この数時間の間で何があったのか確実なことは分からないが、派遣社員の登録を解除されるくらいならゴリ押しで希望の仕事にねじ込こんでしまえと考えたのだろう。それが出来るなら最初からそうしてくれという感じである。
この仕事はそれなりの手取りが期待できる案件ではあったので、私はやや不機嫌になりつつも「分かりました。そちらで働かせていただけるのであればよろしくお願いします」と返事した。かくして私は工場での派遣労働に内定を得たのである。

しかし実際に現場入りすると、これが想像以上に厄介な仕事だということが明らかとなった。


当現場は二十四時間稼働の二交代制で、一日の拘束時間は12時間(そのうち1時間半は休憩)である。従業員は四日夜勤をして二日休み、四日昼勤をして二日休みのサイクルで働く。
この現場には製造・塗装・検査・梱包など様々な業務があるようだが、新人の私がやらされている仕事は以下の単純作業である。
まず何に使われるのかも分からぬ黒いプラスチック製の部品を機械にセットし、蓋を閉める。数十秒待つとブザーが鳴って機械の蓋が開く。すると先ほどの黒い部品が銀メッキを帯びて現れる。それを取り出して塗装にムラが無いかを確認し、箱に梱包する。
立ちっぱなしで10時間程これを繰り返すのである。こんなことを続けていたら頭がおかしくなりそうだ。

 

とはいえ、工場での単純作業が精神的にも体力的にも厳しいことは想定内であった。労働時間が長いことも了解した上でこの仕事を引き受けたのだから、今さら文句を言うつもりもない。
だが提示された条件と違うというか、これは先に説明しておくべきだっただろうと言いたくなるようなことも結構ある。

まず従業員の約半分がベトナム人であるということ。それ自体は問題ないのだが、私に業務内容を説明するように言われている者は単語でしか日本語会話が出来ない。私が仕事について教えを乞うても作業工程を説明することが出来ず困惑している様子である。ベテランや責任者クラスの連中はみな日本人のようだが、この人らはベトナム人派遣労働者に新人指導を丸投げしている。どうしてこれほど非効率なやり方をするのか。

もう一つは業務終了時刻になってから日報を書かされるということ。日報には生産数や不良品数を計算して記さなければならない。慣れないうちはこれに時間を取られてなかなか帰ることが出来ない。ちなみにこの間は給料が発生していないらしい。

はっきり言ってこれでは給料に見合わない。三月末に労働契約の更新日があるのだが、私は更新を拒否しようと出勤初日に決めてしまった。それまでは我慢してこの仕事に耐えるしかない。

 

やはり私は長く仕事を続けていく根性を持ち合わせていないのだ。受験から逃げ続けた男は仕事からも逃げ続ける。

 

21歳にもなって未だ実家暮らし。掃除も洗濯も食事も親に頼り、そのくせ家庭に納める額は毎月3万円のみ。
これほど恵まれた環境にありながら低学歴で何の技能も無く、その辺の中学生でも出来る作業でしか金を稼ぐことが出来ない。

やはりこうして惨めな人生を歩むことになったのも全て私自身の責任だ。努力する為の環境は整っていた。私は自らの意思によって自堕落な生き方を選択し、その結果としてかくの如き不遇な現状に甘んじているのだ。
こうなった以上は資本主義社会の敗北者としての自覚を持って謙虚に生きてゆくしかないだろう。私はきっと一生このままだ。冷静に考えて此処から這い上がれるような人間はそもそも此処まで堕ちてこない。

今後は仕事を転々と変えるのは仕方がないことだと諦めて、貯蓄を増やすことだけ考えていくつもりである。金が有ればメンタルに余裕が生まれるはずだ。実家に甘えていられる今がラストチャンスなのだ。ここで時間と精神的余裕を作って、それからどういう人生を歩むか考え直そうと思う。