二浪之愚記

浪人の末に全落ち。高卒労働者の随想。

仕事終わりの酒の美味さに酔う

所属している警備会社から現場に出て欲しいと連絡が来た。実に2ヵ月振りのことである。その間ずっと自宅に引きこもっていたせいか、仕事の開始がいつにも増して億劫に感じる。

しかし、貯金が底を尽きようとしているこの現状で、要請を断る余地などない。連絡が来るだけ有難いと強制的に思考を改め、苦渋の表情で出勤を了承する。

憂鬱だ。堕落を極めた私には、たった1日の労働ですら大変なプレッシャーなのである。

 

仕事前日の夜。私は速やかに部屋の明かりを消して布団に潜り込む。復帰初日に寝坊するなど言語道断である。しっかりと寝て万全の体制で仕事に向かおうと意気込んでいた。

 

しかし、その計画は呆気なく破綻する。むしろその計画が裏目となって出たのである。絶対に寝坊してはならないという強迫観念が、かえって私の睡眠を妨害するのだ。はやく寝ようと思うだけ目が冴えて焦りが加速する。深夜に入ると動悸が止まらなくなって、SNSでその不安を吐き散らす。そうして布団の中で悶々としている間に日は昇り、結局私は一睡も出来ずに当日を迎える。

これが労働の嫌な所だ。労働時間外でさえプレッシャーと不安に支配されてしまう。『近々仕事がある』というだけで精神が擦り減る。労働そのものより、労働しなければならないという現実に嫌気が差す。

 

仕方なく寝不足のまま仕事へ向かう。働く前から身体に嫌な疲労感を覚える。

今回の現場は田舎の小学校で、そこがワクチンの接種会場になるらしく、我々はその運営の手伝いをするのである。

業務自体は簡単な案内と車両の誘導に過ぎないが、夏の暑さがとにかく厳しい。焼くような日差しが、ただでさえ貧弱な引きこもりの体力を容赦なく削ってゆく。

逃げ出したい想いを必死で抑えながら、私は朝から夕方までの10時間を耐えていた。世の中の人間はこれを毎日のように繰り返していると思うと、尊敬を通り越して呆れ返る。仕事に付いて行けない自分が正常で、付いて行ける周りの人間が狂っているというような、そんな錯覚に陥る。

そうして足腰と精神に痛みを抱えながら、やっとの思いで仕事を終える。解散が宣言されると、真っ先にコンビニエンスストアへ駆け込んで、缶ビールを一つ購入する。仕事終わりの一杯だけが、私をかろうじて労働に繋ぎ止めてくれる鎖なのだ。

昔はコンビニを出るやいなやグビグビと飲んで駅まで歩いて行ったものだが、この時世にマスクを外して飲酒しながら人通りを進むのはあまり褒められたことではない。仕方がないので民家に挟まれた細い脇道に逸れて、休息するのに良さげな場所を探して歩き続ける。

道なりにしばらく進むと、広い田地に出た。水田が夕景の空を反射して朱色に光っていた。

見事に上下対称となったその美しい景色を眺めながら、私は救われたような気になって、道の端に腰をかけて手持の酒を飲んだ。水分の不足した身体に流れ込むアルコールは異様な速さで私を酔わせて、刹那的な快楽を以て今日の苦痛を少しばかり肯定的な経験へと書き換える。家に引きこもって酒を痛飲するより遥かに良い味がした。この至福の時こそが労働の実質的対価なんだ。そんな意味不明な解釈をして、自分を奮い立たせる。

我ながらよく頑張ったと思う。アルコールと夕日のもたらす感傷に酔いながら、私はまた働く覚悟を固めるのであった。

 

 

 

 

青春コンプレックスの呪縛について考える

青春コンプレックスなる言葉があって、それが大変興味深いのでここに取り上げようと思う。というのも、私自身がそのコンプレックスの当事者だからある。

青春コンプレックスとは何か。端的に言えば、学生時代に「青春っぽい」体験が出来なかった人間の抱く劣等感のことである。

10代の頃に純情な恋愛が出来なかったこと、仲間と同じ目標に向かって努力したりバカ騒ぎしたり出来なかったこと。そういった青春に対するステレオタイプな憧れが、ずっと消えずに残存している状態を言う。青春に対する幻想と自身の学生時代を対比して、筆舌に尽くしがたい敗北と虚無を覚える。いい年した大人がいつまで子供じみたことを嘆いているのかという感じだが、当事者にとって学生時代の記憶は決して離れない呪縛なのだ。

私の学生時代も例に漏れず、まさに後悔と嫉妬の連続であった。これまで何度も人生をやり直したいと思ったし、過去の自分を責めては陰鬱になったりもした。

しかしここで、考えてみたいことがある。

仮にこの後悔の記憶を残したまま過去に戻れたとして、はたして自分の人生は変わるだろうか。この問いはすなわち、過去の自分と同じ状況に立ったとき、ちゃんとリスクを取る選択が出来るのかということとほぼ同義である。

そう問われてみると、実は私はあんまり自信がない。私の人生における後悔なんてのは、単なる後出しの理屈に過ぎず、行動に伴うリスクについての視点が無意識的に抜け落ちているか、あるいは軽視されているような気がするのだ。

努力することを面倒がって、周りの人と交わるのを怖がって、そうやってリスクの少ない方を選んだのは紛れもなく自分であった。今、学生に戻ったとして、同じことを繰り返さない自信がない。理想の青春を謳歌するには相応の努力や才能を要するわけで、それらを持ち合わせていない人間の言う青春コンプレックスとはすなわち、予定調和な宿命への嘆きでしかない。

私はそのような嘆きを一切否定するつもりはないし、むしろそのような嘆きしか口にしないような人間であるが、この嘆きが全く無意味な戯言であるという自覚だけは常に持っておきたい。

思うに、この話の根本的問題は自分の過去の行動の一つ一つではなく、普遍的な自分のキャパシティが理想より劣っているという、もっと抽象的なところにある。ここで言うキャパシティとは能力や外見であったり、リスクを負う度量のことだ。

そこを解決しない限り、後悔とコンプレックスの歴史を更新する人生は続いてゆく。実際いまの私はそうである。

そういう風に理屈では分かっているのだが、理屈通りに動けないのが私なのであって、結局苦悩が絶えない。誰かこの呪縛から私を解放して欲しい。

 

 

 

ツイッターを見て自分がどれだけ甘えているかを知る高卒フリーター

最近のタイムラインでは就活や院試、公務員試験の話題が盛んである。私がフォローしているのは浪人時代から繋がりのある同年生まれの人たちで、その多くが一浪で大学進学を決め、現在は大学4回生である。彼らにとって今はまさにキャリアの第一歩を定めようという時期なのだ。

かたや私は、実家暮らしで呑気にアルバイトなんかをして、稼いだ金を酒に溶かしながらその経緯を眺める高卒のフリーターである。大学全落ちから流れるように社会のレールを踏み外し、ニート、アルバイト、派遣社員をグルグル循環して、結局この5年全く成長がない。そしてそんな現状を変えようという意思も抱かないくらいに、この生活に慣れきっている。

かつて同じ目標を持って共に邁進していたはずの人たちが、今となっては価値観も住む世界も違う遠い存在に感じられる。これは紛れもなく、私が悪い方向へ変わってしまった証であろう。

生まれつき人間社会への適性がなく、そのうえ社会に適合する努力を怠ってきた人間の末路はこうなる。アルバイトや派遣労働でさえ、長く続いた例がない。どうせ正社員など目指したところで採用はされず、仮に採用されてもすぐに精神を病んで退職するに違いがない。そもそも私には決められた時間に寝て起きるということすら困難なのだ。

そう考えると、やはりまともなキャリアを積み重ねていこうという気にはならない。今の私はただ楽な日雇い労働を見つけ出すことにしか関心がない。そうして仕事を見つけても、気に入らないことがあればまた辞める。その繰り返しである。

しかしこうなったのも、私の人生における選択の結果だ。自分が望んでここまで来たのだから、現状に文句を言うことは許されない。

親にはこんな出来損ないの人生を歩み、ひたすら迷惑をかけるだけの人間になってしまったことを心の底から詫びたい。私はまともな社会人にはなれないし、結婚することも出来ない。甘えていると言われればそれまでだが、私の意志の力では社会に出るというのは無理なのだ。許して欲しい。

大学を卒業して社会人になる友人やツイッターのFFには心からの尊敬を以って健闘を祈りたい。私には出来ないことだからこそ、本当に凄いと思うのである。

 

そんなわけで久々のブログの更新であった。長文失礼。

 

 

 

 

 

【多浪的思考回路】不勉強な浪人依存者の生き方

 これまでの浪人期間を振り返ってみても、ろくに勉強をしていた記憶がない。浪人ともニートとも社会人とも明言できぬ半端な存在として、フラフラとこの世を彷徨い続けてきた。
そして気が付けば21歳。有り体に言えば四浪の歳である。
やはりどう考えても、私に大学受験というレースは向いていないのだ。そんなことは、浪人生活を始めるずっと前から気付いていた。才能も無く、努力する気も無いのであれば、さっさと受験勉強から手を引くべきなのは自明であった。
ところがそうは問屋が卸さない。過去の記事で散々語ってきた通り、学習は苦痛だが大学には行きたいという支離滅裂な思考が、私の人生をずっと蝕み続けてきたのある。もう一年浪人すれば大学に行けるのではないかという楽観的な幻想が、自尊心崩壊を阻止する精神的支柱として機能してきたことを、私は否定出来ない。このような有様では浪人依存と言われても文句は言えまい。
しかしこればかりはどうしようも無いことであり、誰にも理解されないことでもある。私にだけ掛けられた呪いのようなものとして受け入れてゆくしかない。なんとも珍妙な呪いである。

とはいえ四浪まで来ると、一般的な社会のレールに乗って生きてゆく王道ルートは完全に閉ざされているように思われ、ある意味で気が楽ではある。もはや四浪するのも十浪するのも似たようなもののように感じてくる。
このまま「受かるまで受験していればそのうち受かるだろう」という舐め腐ったメンタリティで生きてゆくのであれば、浪人生活を持続可能なライフスタイルとして確立することは必須事項である。
私がこなせる学習量には絶対的な限界があるので、残りの時間的・精神的リソースは出来るだけ経済活動に捧げてゆきたい。学習出来ないことに対する自己嫌悪で病んでいたこれまでの時間は本当に無駄であった。自分に長時間の学習は出来ないものだと開き直って、他に生産的な活動をしていた方が何倍もよい。いっそのこと金を稼ぐことをメインにして、その合間に細々と受験勉強を続けてゆく方が、よっぽど健全な生き方なのである。

一般的に、現代の日本では将来のキャリアを見越して大学受験を経験するという風潮があるが、もはや私はそれに逆行する者である。大学受験の成功の為に、金を稼ぐ。大学生になった後の余生は蛇足みたいなものだから、適当に考えておけばよい。

とりあえず直近の目標は派遣労働の量を減らすことだ。収入源を可能な限り分散してゆく。その中で自分が得意そうなことを見極めて、徐々にそこに比重を増やしてゆく。このブログもまたその稼ぎ口の一つである。

そしてもう一つの目標は一人暮らしの実現である。これに関しては2、3ヶ月以内に達成するつもりだ。どうして私が一人暮らしにこだわるかというと、浪人生活に対して誰にも文句を言わせないためには、生活レベルでの自立が必要だからである。食事も洗濯も親に頼っている分際で、実家に金を納めているから文句はないだろとは言えない。

客観的に見れば労働の傍に大学受験なんて無謀の極みなのだろうが、どれだけ無様に失敗を重ねようが、自分で責任が取れるなら問題なかろう。私にはこの生き方しかないのだから、このように生きてゆく。それだけの話である。

 

 

 

 

 

 

 

 

人生の全てがどうでもよくなりつつある高卒底辺派遣労働者の心境

派遣で工場勤めを始めてからというもの、やけに「死」という概念が脳裏をよぎる。

幸福になる為に努力することを放棄し、自分以外に守るべき存在を持たない大人は、何を目的に生きればよいのか。自分一人がギリギリ死なない程度の給料を稼ぎながら、ただ時が過ぎるのを待てばよいのか。その延長線上にある死と、理論上すぐに選択できる自死と、一体何が違うのか。

そんなことを考えながら労働に従事している。私の人生は死に伴う苦痛や恐怖をひたすら先延ばしにしているに過ぎないと考えると、ある種の虚しさが込み上げてくる。

とはいえ、私は生理的本能に打ち勝って己の意思で死を決行できるほど覚悟のある人間ではない。結局のところ、この世界で無様に苦痛から逃げ回る方法を模索するに限る。

これまでの私は、自分に内在する社会不適合者特有の思考原理を、必死に押し殺して生きてきた。本当は他人に興味など無く、周りにいる人間が煩わしくて仕方がなかったのだが、そのような態度は決して見せないようにしてきた。それがこの地獄のような世界を生き抜くための、私なりの生存戦略だったのである。周囲が不快にならないように偽りの自分を演じ、時には自己犠牲によって平穏な人間関係や職場の雰囲気を守り続けてきたのである。
ところが今となってはそのような努力をする気力も起きない。周りを不快にさせようと、どれだけ嫌われようと、もうお構いなしである。現在の職場では皆がサービス残業をしている中、無許可で帰宅したりして、さっそく嫌われ者となっている。契約書に書かれた労働時間を超過して無償で働かされているのだから、悪いのは会社側であるし、私がサービス残業に従事する義務など一つもないのだ。私が抜け駆けしたことで現場が混乱し、残された従業員達が多大な負担を受けようと、もはや私は何とも思わないし、それを咎められたとしても、謝罪も反省もするつもりはない。仕事に支障をきたすようなイジメが起これば出社を拒否して派遣会社に迷惑をかけてやればいいと思っている。

失うものが無い上に将来の人生にも期待出来ないとなると、人はこのように「無敵の人」と化していくのだろうか。いずれ法を犯し刑事罰を受けることすらノーダメージだと思える日が来てしまうのだろうか。私はそれがものすごく怖いのである。

そうならない為には現状を軌道修正し、人生にある程度の期待を抱けるようにするしかない。しかし、この派遣労働を続けている間にそのような事が実現するなど有り得ない話である。周りの人間は皆うつろな目をしていて、負のオーラに満ち溢れている。ずっとこんなことを続けていたら確実に潰される。

私はここから逃げ出せばよいのだろうか。逃げ出したとして、どこへ行けばよいのか。何かスキルのあるわけでもない低所得者は、当分労働自体から逃げ出すことは出来ないのである。ここから逃げ出した先の職場が、ここより酷い可能性だって十分考えられる。

 

これまでずっと人生の要所で選択を誤り続け、その都度反省することなく問題を先送りにしてきたシワ寄せが、今ここに来てとんでもない後悔を生んでいる。どうしてここまで堕ちるまで学習しなかったのかと、自分に怒りが湧いてくる。

今更こんなことを言ってもどうにもならないことは分かっているが、本当に変わりたい。早く反省して一から努力を積み上げる気概を持ちたい。踏ん張って人生を諦めないで、真っ当な大人に成長したい。頭ではそう思うのに体が付いていかない。行動出来ない。人間性が変わらない。

 

今後、これ以上厳しい状況はいくらでもあるのだろう。しかし、自分のキャパシティはもう限界である。ここから這い上がる苦労も、このまま堕ち続ける苦労も、耐えられそうにない。精神か身体かが壊れるまで時間の問題かもしれない……。

 

 

三浪らしき者による生存報告とセンター試験の結果について

センター試験が終わって日が経つが、なかなかブログを書けないでいた。というより、試験に関してはもはや書くべきことが無いのである。
受験を名目に労働から逃げてきたはいいが、当然勉強など出来るわけもなく、私立・国立共に諦め、時が過ぎるのを待つだけであった。センター試験が終わるまでは税金対策も兼ねて休養し、これを区切りにまた職を探そうと決めていた。
試験の二日後に派遣会社へ登録し、紹介された時給1900円の仕事を引き受けることになった。ところが急に派遣先の職場が人員の募集を撤回したなどと訳の分からないことを言い出し、話が水泡に帰してしまった。それから幾つかの職場に赴き、顔合わせという名の違法面接を強要され、今はその結果待ちなのだが、一向に返事が来ない。完全にハズレの派遣会社を引いてしまった模様である。
仕事内容や労働時間はどうでもいいので、それなりの収入が見込める職場でさっさと就業を開始したいところだ。これ以上無職で居続けると精神が崩壊する恐れがある。
無職になるということは物理的苦痛から解放される代償に精神的苦痛を強いられるのと同義であるということを、私はここ数カ月で再認識した。労働に従事すると宅浪ニートであった時代を懐かしむようになるが、実際に無職へ舞い戻ってみると、労働によって思考が停止した状態が如何に幸せであったかを理解する。私は一生この無限ループを廻り続けるような気がして半ば絶望している。

前回の記事のコメント欄には私の受験を応援してくれるようなものが多く、大変有難かったのだが、それ故にこのような敵前逃亡とも取れる結末を迎えたことを申し訳なく思う。学習する気力がないのに大学への未練だけは一丁前で、仕事を投げ出したにも関わらず勉強をしないという奇行に走ってしまった。自分が哀れすぎて消えてしまいたい衝動に駆られる。死にたいとまでは言わないが生きていても仕方がないという感じである。

なんだか話の展開にまとまりのない記事になってしまった。知能を使う作業がまともに出来なくなっている証拠である。最後にセンター試験の自己採点だけ載せて終わりにしよう。

英筆142  リス28
国語133(48、50、19、16)
数学94(56、38)
日本史95
世界史70
地学基礎 22 生物基礎30

最後のセンター試験だというのにこの有様である。来年からは共通テストなるものが始まるそうだが、私はそれを受験するのだろうか。もう分からん。

三浪、仕事を辞めるも勉強に専念できず、開き直る

仕事を辞めて一週間が経った。いざ無職になるとこの膨大な閑暇をどう扱ってよいのか分からない。

時間さえ有れば試験勉強にフルコミットできるだろうと考えるのは早計である。
今は何事にも全くやる気が起きず、僅かに残る貯金を酒に溶かしながら延々と愚痴をボヤくことしかできない。最近は寝床から起き上がるのにも一苦労を要する。文章の書き方すら忘れて、たかが数百文字のブログを書くにも2、3日かかる。

毎年のことだが、この時期になると私は勉強への意欲が著しく減衰するのだ。三浪もしていると、どのタイミングで自分が無気力に襲われるのかが大体分かってくるものである。最近は「今から勉強してもどうせ試験に間に合わないのだから頑張るだけ無駄だろう」という、心理学において合理化と呼ばれる現象が発動する時期らしい。

いつまで経ってもこの調子だから、私は自分の意志でモチベーションをコントロールすることを諦めた。勉強する気になったときに勉強し、やる気がなくなったら止める。仕事も同じように辞めたり始めたりを繰り返すのだろう。そうやって非効率な人生を歩んでいくのが私にとっては一番合理的な生き方だったりする。一般人とは出来るタスクの量が全然違うのだから、無理をせずに些細な進捗に喜びを見出していくしかない。

センター試験の申し込みは無事に完了した。おそらく現在の学力では630~680くらいしか取れないだろう。世界史と理科基礎を詰めつつ、英語をもうちょっと得意にすれば八割に届くだろうか。まあ、これからセンター試験にかけて実際に机に向かって勉強出来る自信は無いのだが。